<寄稿文> 関根貴大氏 (せきね・たかひろ)
普段、私はTeamJ.の練習以外にも近くのスポーツジムで自主練習をしている。実を言うと、自分は大学生の時にジムを一回変えている。今のジムはトライアスロンの為に契約したジムではある。その為、コロナ禍の影響も大きいが、余り交流があるわけではない。しかし、かつて所属していたクラブは高校の時から通い、自分にとって第二の部活であり自分の居場所であった。その頃にあった人の影響で自分はトライアスロンを始め、高田馬場の暴れ馬になったのだ。今回は自分を導いてくれた2人をご紹介していきたいと思う。まずはMさんである。この方は元々アイアンマンのトライアスロンをしていた。その為、自分がトライアスロンをする際に多くのアドバイスを下さった方である。自分のコナに出たいという夢はLife Bloodの谷本先生の影響だけではなく、Mさんの影響も相当大きいです。また、自分の無理をしないスタイルはこの方から教わったスタイルだった。実は一回、トライアスロンをやめたいとMさんに伝えた事があります。理由はトライアスロンでインカレに行く自信がなくなり、自分の隠れ特技であるスキーに転向したくなったからでした。しかし、よりにもよってMさんは大学でスキー部に所属していたのだ。Mさんはトライアスロンの才能は抜群だというお墨付きを頂いてとどまった経緯があります。後に、Mさんから自分のスキーは荒削りと言われました。本当に転向しなくて良かったです。その節は本当にありがとうございました。今ではなかなか会えませんが僕にとって大切な人の一人です。
もう一人はYさんです。Yさんは自分がジムを変えるきっかけになった人でもあります。元々、Yさんは水泳が速い方で一緒に練習をすることが多かった。初めて会ったのは高校生の時で、自分の肺の病気がようやく治った頃でした。その頃はブランクでろくに泳げなかった。本当に泳げなかった。スピードはあってもスタミナゼロまで泳力が落ちていたのだ。当時の自分はYさんよりも遅くなっていた。そんな自分も高校の頃は適当に泳いで普通に泳げるようになり、このクラブでは物足りなくなった。そんな時にTeamJ.を僕の友人から紹介してもらったのだ。そのことをYさんに言うと、『行ってきなさい』とハッキリと言われた。それでトライアスロン選手になると自分の腹が決まったのだ。そして、コロナ禍でクラブのサービスが著しく落ちた時にYさんから今言ってるジムに来ないかと誘われて今に至っている。Yさんとは今でも仲良くさせてもらっている。本当に感謝しています。
以上の話は自分の妄想のような話だが、事実である。事実は小説よりも奇なりとは言ったものだが、正にこのような状況を指すと思う。振り返ってみると、TeamJ.の先輩を含めて自分は人の絆でトライアスロンを続けているのだなと思った。
<評>
関根氏は慶應義塾大学トライアスロン部Team J.の第31期生であり、現役で競技を続けている。4年生になった今なお、あふれんばかりのパワーを前面に押し出したダイナミックな競技スタイルでTeam J.を引っ張る姿勢は驚嘆すべきものがある。練習後には羽振りの良い姿も見せ、先輩後輩問わず積極的にコミュニケーションをとる姿は少なからず今のチームの良い雰囲気に貢献しているだろう。彼自身がアクティブに活動しなければ文中のような縁は生まれなかったであろうし、ここからも自らの向上への好奇心を垣間見ることができる。
関根氏の指摘通りいかなることも人と人とのつながりにより生まれ、発展していくものである。トライアスロンも例外ではない。個人競技としての側面がピックアップされがちなスポーツではあるが、私は一人の競技者として集団競技に近いものを感じざるを得ない。常人離れした距離を三種目続けて行うのはたとえトライアスリートと言えども簡単に乗り越えられるものではない。競技中に集団ができやすい性質があるため、ほとんどの時間周りに人がいる状態で競技は進んでいく。その中で集団になって空気抵抗を減らすなどといった技術的な面も確かにあるが、周りの誰かに勝ちたい、負けたくない、何としてでも付いていきたい、そういった気持ちが人を芯の部分から動かすはずである。
7月11日にはインカレ出場権をかけた大イベントであるカンカレが行われる。各人がそれぞれの目標を胸にして、今か今かとスタートを待ち望んでいるに違いない。レース中は出たとこ勝負ではあるが、皆心の中では「あいつには負けたくない」「あいつに勝ちたい」という気持ちがあるはずだ。本番当日、命を燃やすような熱いレースがみられることを期待している。
そして関根氏には「暴れ馬」らしく、派手なレースで鮮やかにインカレ出場権を勝ち取ってほしいと願うばかりである。
(文責 33期 岡村啓吾)